野花南山荘には「抜歯塚」があります。毎年、秋分の日には抜去歯をおさめ供養します。先代が残した遺産です。この抜歯塚を建立した背景には、よほどの想いがあったものと思われます。昭和63年発刊の「空知歯科医師会創立40周年記念誌」に寄稿した文章を全文掲載します。
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抜歯塚の建立
川原 義隆
芦別市野花南町、丸山のふもとにある川原園には、おそらく全国ではじめての他に例をみない「抜歯塚」が建っております。昭和42年、この地で開業して20年を記念して建てたものですが、毎年9月23日の秋分の日には、治療のため抜いた歯を大切に供養し、抜かれるまでのその歯の働きに報いるようにしています。
抜歯塚を建立するにあたり、その考えとなる最も大きなところは、命の尊さによるものです。生まれいずるものは、その死後も生まれいずるところへ帰る。これが自然の摂理であり、生きるものへの感謝の気持ちであります。「この宇宙、地球(土)より生まれた生命の一部を土にもどそう」というのが、抜歯塚建立の理念になるところです。しかし、この一言で、すべてを言いつくすことはできません。いわば私の人生観によるものですから、その生き方を述べさせていただいて、その中から私の本意をお汲みとりいただければ幸いです。
私は大正3年、石川県出身の両親のもとに四男として北見で生まれ、その後美唄で育ちました。13歳で母と死別、勉学を志し単身京都の歯科医、恩師森先生の門をたたいたのは昭和3年、当時15歳の時でした。以来8年間、歯科医院の書生として、まさに生活と勉学に追われる毎日でした。その努力の実を結ぶべく歯科医師試験受験のため朝鮮に渡ったのが昭和11年秋でした。しかし、志を達する間もなく日支事変のため昭和12年夏、召集され除州や北支山西省を転戦し、昭和15年1月除隊、その10月朝鮮総督府施行歯科医師試験に合格しました。このとき26才でした。その後、昭和16年3月に結婚し、9月札幌の歯科医院に勤務しましたが、翌10月にまた、歩兵として応招、大東亜戦争で南方へ出征。勝っている間はタイ国国境からラングーンに至る兵站警備隊として治安維持にあたっていましたが昭和20年4月頃になると戦況悪化、ラングーンを放棄し、タイ領への脱出作戦では、分隊長として英軍の包囲部隊に切り込み突撃し、ほとんどの戦友が、レーダーの待ち伏せに合い死んでいきました。私も右大腿部に貫通銃創、右にずれると大腿骨が折れるか、左へずれると局所がなくなるという際どい所を抜かれ、左足下肢に破片が残る盲貫砲弾破片創を受けて現在でも破片が身体に残っています。戦友の多くは、傷にウジがわいて深く入りこんだウジを取るのに苦労したほどでした。その後、マラリアでターモアン陸軍病院へ入院するなどして、昭和21年、旭川で編成した軍馬防疫庁に転属し除隊しました。
昭和22年、引き揚げ歯科医師試験を東京医科歯科で受け合格し、はれて所期の目的であった歯科医師になることができました。この時32才ですから、戦争によって23才から32才までの青春時代、悲願成就への回り道をしたことになります。しかし、この間の体験が、私の人生観を育てた一番大切な時期であります。一個大隊約千名近くもいた第73兵站警備隊は、日本へ引き揚げたときは、わずか50名ほどしかいませんでした。戦場に消えた数多くの戦友の命、戦闘で経験した死への恐怖などから、真に命の尊さを知らされました。戦争体験だけが人生観をつくりあげたのではありませんが、私には、かなり重要な部分を占めていることは否めません。
こうして昭和23年、芦別市において歯科医院を開業しました。約8年後、自宅には花を植えるほどの庭もなく、心の憩いの場とすべく野花南町、丸山のふもとに山林を購入し毎年、少しづつ手入れをし庭園化してきました。現在では、10丁歩(3万坪)の土地に花畑や池をつくり、約400本のブドウの樹に実がなるようになりました。
昭和42年9月に開業20周年を記念し、この土地に多くの友人の協力により抜歯塚を建立したのです。高さ1.5メートル、幅1メートル、重さ1トンのメノウ化した蛇紋石に抜歯塚と刻まれています。開業以来、研究資料にしようと保存してあった約6万本の歯牙のうち、6千本ほど除いて、あとの5万4千本を供養しました。以来、毎年秋分の日には1年間に抜去された歯を供養し抜歯塚におさめています。現在、開業以来40年になりますから、およそ10万本ぐらいはおさめられているのではないでしょうか。
昭和42年、建立当時は、朝日新聞、毎日新聞、北海道新聞、北海タイムス、サンデー毎日、空知タイムスなどに報道され、ニューヨークタイムズやイタリアの新聞にも掲載されました。外国からの問い合わせもあり、自分のしたささいな行為の反響の大きさに驚いたものでした。
▼ 歯科医抜歯の塚をたてる 芦別・日本(UPI共同)
芦別市の歯科医・川原義隆氏は、芦別市に於いて開業以来20年間におよそ6万本の抜歯をした。そしてこのことを世間に忘れさせまいとして、次のような計画をしている。川原氏は、5万4千本の歯を埋め、その上に歯形をした記念碑
をたてた。同氏は、この記念碑を中央にして、記念碑をたてた土地を公園にしようと計画している。これができれば、おそらく抜歯を記念する世界唯一の公園になるであろう。
その後、アメリカの歯科学生マガジンという雑誌にも写真入りで記事になっているそうです。
抜歯塚には、漢文で以下のように刻まれています。
我自従事医業二十年以人憂為我憂以人病想
我病見人災厄擬我身常以欺心境行診療抜去
患歯逅巨万収在函中今日開函埋地中永欲賛
歯牙労苦及建立記念碑営供養刻石章所以也
昭和四十二年九月二十四日
文案 川原 義隆
書 志田 傳
【訳】
我れ医業に従事してより20年、人の憂を以って我が憂と為し人の病を見て、我が病と想い人の災厄を見て我が事の如く常にこの様な心境を以って診療を行い抜歯した歯牙の数も巨万により今日、土に還し永く歯牙の労苦を感謝し記念碑を建て追悼の意を表し石面に刻むものであります。賢人は、刹那的でも社会のため、人類のために大地の上に自らの足跡を残している。我々、凡人としても、そのような心がけを持ちたいと思うが、実現は、なかなか困難である。足跡とまでは言えないが、この抜歯塚がささやかではあるが、大地に爪跡として残ってくれるなら、私の人生を通じて最大の光栄であります。