幻の薄焼き玉子の春巻き

 あれは現実だったのか、幻だったのかと疑うほど遠い昔の想い出。50年以上も前の学生の頃。東京か名古屋か京都か場所は定かでないが、一人で入った街の小さな中華料理店。入り口を入ってすぐ左手の席。道路に面して窓があり、食堂というより喫茶店のような雰囲気の店だった。メニューの定食欄に「春巻き」という人生初の食べ物を見つけ注文。ひょっとしたら、お店の人に「どんな料理?」なのか尋ねたのかもしれない。季節は春だったような気もするが、たぶん「春を巻いた食べ物」というロマンチックなネーミングに惹かれたのだと思う。皿に並んだ鮮やかな黄色の春巻きは「まさに春のイメージ」を実感させるに充分なものだった。

 この歳になるまで、いわゆる「春巻き」は何度も食べているが、小麦粉の皮に包んで揚げた茶色のものばかり。パリパリサクサクの食感は、まるで落ち葉を踏んで歩いているようで味気なく、どちらかといえば、春より「秋巻き」のイメージ。もっとも、春に芽吹く野菜を巻いて頂くのが春巻きの由来とされているのだから別に皮がどうであろうと「ほっといてくれ」といわれそうだが。

 50年前に、ふと立ち寄った街の小さな中華屋さん。中華風の具を「ふくさずし」のような薄焼き玉子で巻いた山吹色の「春巻き」という料理。生まれて初めて食べたという記憶だけが残り、あれ以来一度も同じ料理に出会っていない。だから、あの出来事が幻のように思えてしまう。

 最近、そんなことを想いだしネットで調べてみた。関西には、薄焼き玉子で包んで揚げる春巻きがあるらしい。自分の記憶では揚げてなかったような気もするが、あまりにも遠い昔の想い出。記憶違いなのだろうか。揚げずに包んだだけなら中華オムレツであって、春巻きとは呼ばないのだろうし。いや、生春巻きというのもあるのだから「生の玉子春巻き」があってもおかしくはないはずで、あの鮮やかな黄色は、どう考えても揚げてない生の玉子春巻きだったに違いない。あー、もう一度喰ってみてぇー。

 ふと、昔の出来事を鮮明に想い出すことがある。老いの症状の一つなのだろうか。タイムスリップで楽しい想い出に触れることができるのなら老いることも満更ではないが、行ったきりにならぬよう気をつけなければ。


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