ルピナスの子供

 散策すると名も知らぬ花に出逢う。

 

 どこから飛んできたのか生命力旺盛なルピナスは毎年、その数を増やしつづけている。そのうち「ルピナスの丘」と呼ばれる日がくるかもしれない。今はまだ小さな芽の状態だが、開いた葉はすでにルピナスの葉のカタチをしている。成長すると草丈1m以上になり紫や藤色や桃色や白の花が咲く。藤の花を逆さにしたような花のため、ノボリフジともいわれる。花の咲く時期に紹介するが、その子供時代はこんな具合。

 

オタマジャクシの卵

 春の訪れをつげるものは池の中にもある。水温が冷たいせいか、まだ動かないが、もう少しするとオタマジャクシが動き出す。

カエルの卵

愛犬の魂が眠る鎮犬碑

 先日紹介した抜歯塚の奥にもう一つのモニュメントがある。代々飼っていた犬が眠っている。昔は土に埋めていたが春になると熊が掘り起こして食べてしまったことがある。いろんな犬の想い出があるが、ララという名前が多かった。今もララという名前の娘がいる。

愛犬の魂が眠る鎮犬碑

愛犬の魂が眠る鎮犬碑

 痛ッテェー。腕も肩も腰も脚も。陽にやけて顔も痛い。

 この時期から野花南山荘では、冬の間枯れていた笹が元気を取り戻す。放っておくと山全体をおおいつくすほどだ。もちろん全部を刈るわけにもいかず、抜歯塚へ通じる小径やレストハウスのまわりを刈りはじめる。今年初めての草払い機始動。

 天気が良く風が吹くと涼しいが、1時間も草刈り機を振りまわしていると、かなり汗ばんでくる。芝草や雑草なら簡単に刈れるのだが、笹はしぶとい。「鉄は熱いうちに打て、笹は若いうちに刈れ?」ということで2時間半ほどの重労働をした。おかげであちこち痛いわあ。

 劇的ビフォーアフター(♪なんということでしょう...)

 

 途中疲れて、草むらに倒れ込み空を見上げた。

 昼は握りメシ。外で喰うのはこれに限る。我が家自慢のニンジンの粕味噌漬とザンギで最高のご馳走。

 娘たちとおばさんもお昼を食べてリラックス。

 それにしても今日は働きすぎだあ。疲れたなあ。

水仙はナルシスト

 写真はニラではありません。葉のカタチがニラによく似ているので間違って食べると死ぬかもしれません。リコリンという毒があります。スイセンです。まだ蕾のままですが、あんな可憐な花を咲かせるスイセンに毒があるなんて信じられません。ま、ニラ独特の匂いがないのですぐにわかりますが。

 スイセンの学名は、Narcissus(ナルキッソス)。ギリシャ神話の美少年ナルキッソスからきています。ナルキッソスは、その美しさゆえに大勢の相手から言い寄られますが、すべてハネツケたので恨みを買い、復讐の女神ネメシスの呪いにより水面に映った自分自身に恋をしてしまう。かなわぬ恋に身を焦がし憔悴して亡くなり、その身体は水辺でうつむきがちに咲くスイセンになったらしい。だからスイセンは水辺であたかも自分の姿を覗き込むかの様に咲くのです。このことから欧米では、スイセンをナルシスと呼びます。ナルシストの語源です。

 落ち葉を貫いて伸びるスイセンの葉には、力強さを感じます。

 花言葉:(全般:うぬぼれ・我欲・自己愛・神秘)、(黄色:気高さ・感じやすい心・もう一度愛してほしい)、(白:自己愛)、(ラッパスイセン:あなたを待つ・自尊・報われぬ恋)

 これから私も、言い寄られたらハネツケないようにしようっと。(それが、ウヌボレだっちゅうの)

 クロッカスは、雪融けの早春に地上すれすれのところに咲きます。花の形は、晩秋に咲くサフランに似ています。サフランはブイヤベースなどのスパイスとして使われる紫の花ですが、クロッカスは白・黄・紫。春サフラン、花サフランとも呼ばれます。クロッカスは、サフランと同様に食べることができるそうですが、まだ食べたことはありません。

 

 花言葉は、「青春の喜び・信頼」ですが、黄色の花は「私を信じて・切望」、紫の花は「愛したことを後悔する」だそうです。花言葉のせいではありませんが、私は白いクロッカスが好きです。一生懸命咲いている姿は、とても可憐です。

 2週間ぶりに野花南山荘へ出かけました。もうほとんど雪は残っていません。小さな花々が芽吹きはじめ、いよいよ北国の遅い春到来です。

 福寿草は、春を告げる花の代表です。元日草(がんじつそう)や朔日草(ついたちそう)とも呼ばれます。初春に花を咲かせ夏までに光合成をおこない、また春が来るまでの長い期間、地下で過ごします。カタクリやエゾエンゴサクなども同じように育ちます。この様な植物を「スプリング・エフェメラル」といいます。言葉の意味は「春の儚いもの」。

 福寿草の花言葉:永久の幸福・想い出・幸福を招く・祝福

野花南山荘の抜歯塚

 野花南山荘には「抜歯塚」があります。毎年、秋分の日には抜去歯をおさめ供養します。先代が残した遺産です。この抜歯塚を建立した背景には、よほどの想いがあったものと思われます。昭和63年発刊の「空知歯科医師会創立40周年記念誌」に寄稿した文章を全文掲載します。

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 抜歯塚の建立

          川原 義隆

 芦別市野花南町、丸山のふもとにある川原園には、おそらく全国ではじめての他に例をみない「抜歯塚」が建っております。昭和42年、この地で開業して20年を記念して建てたものですが、毎年9月23日の秋分の日には、治療のため抜いた歯を大切に供養し、抜かれるまでのその歯の働きに報いるようにしています。

 抜歯塚を建立するにあたり、その考えとなる最も大きなところは、命の尊さによるものです。生まれいずるものは、その死後も生まれいずるところへ帰る。これが自然の摂理であり、生きるものへの感謝の気持ちであります。「この宇宙、地球(土)より生まれた生命の一部を土にもどそう」というのが、抜歯塚建立の理念になるところです。しかし、この一言で、すべてを言いつくすことはできません。いわば私の人生観によるものですから、その生き方を述べさせていただいて、その中から私の本意をお汲みとりいただければ幸いです。

 私は大正3年、石川県出身の両親のもとに四男として北見で生まれ、その後美唄で育ちました。13歳で母と死別、勉学を志し単身京都の歯科医、恩師森先生の門をたたいたのは昭和3年、当時15歳の時でした。以来8年間、歯科医院の書生として、まさに生活と勉学に追われる毎日でした。その努力の実を結ぶべく歯科医師試験受験のため朝鮮に渡ったのが昭和11年秋でした。しかし、志を達する間もなく日支事変のため昭和12年夏、召集され除州や北支山西省を転戦し、昭和15年1月除隊、その10月朝鮮総督府施行歯科医師試験に合格しました。このとき26才でした。その後、昭和16年3月に結婚し、9月札幌の歯科医院に勤務しましたが、翌10月にまた、歩兵として応招、大東亜戦争で南方へ出征。勝っている間はタイ国国境からラングーンに至る兵站警備隊として治安維持にあたっていましたが昭和20年4月頃になると戦況悪化、ラングーンを放棄し、タイ領への脱出作戦では、分隊長として英軍の包囲部隊に切り込み突撃し、ほとんどの戦友が、レーダーの待ち伏せに合い死んでいきました。私も右大腿部に貫通銃創、右にずれると大腿骨が折れるか、左へずれると局所がなくなるという際どい所を抜かれ、左足下肢に破片が残る盲貫砲弾破片創を受けて現在でも破片が身体に残っています。戦友の多くは、傷にウジがわいて深く入りこんだウジを取るのに苦労したほどでした。その後、マラリアでターモアン陸軍病院へ入院するなどして、昭和21年、旭川で編成した軍馬防疫庁に転属し除隊しました。

 昭和22年、引き揚げ歯科医師試験を東京医科歯科で受け合格し、はれて所期の目的であった歯科医師になることができました。この時32才ですから、戦争によって23才から32才までの青春時代、悲願成就への回り道をしたことになります。しかし、この間の体験が、私の人生観を育てた一番大切な時期であります。一個大隊約千名近くもいた第73兵站警備隊は、日本へ引き揚げたときは、わずか50名ほどしかいませんでした。戦場に消えた数多くの戦友の命、戦闘で経験した死への恐怖などから、真に命の尊さを知らされました。戦争体験だけが人生観をつくりあげたのではありませんが、私には、かなり重要な部分を占めていることは否めません。

 こうして昭和23年、芦別市において歯科医院を開業しました。約8年後、自宅には花を植えるほどの庭もなく、心の憩いの場とすべく野花南町、丸山のふもとに山林を購入し毎年、少しづつ手入れをし庭園化してきました。現在では、10丁歩(3万坪)の土地に花畑や池をつくり、約400本のブドウの樹に実がなるようになりました。

 昭和42年9月に開業20周年を記念し、この土地に多くの友人の協力により抜歯塚を建立したのです。高さ1.5メートル、幅1メートル、重さ1トンのメノウ化した蛇紋石に抜歯塚と刻まれています。開業以来、研究資料にしようと保存してあった約6万本の歯牙のうち、6千本ほど除いて、あとの5万4千本を供養しました。以来、毎年秋分の日には1年間に抜去された歯を供養し抜歯塚におさめています。現在、開業以来40年になりますから、およそ10万本ぐらいはおさめられているのではないでしょうか。

 昭和42年、建立当時は、朝日新聞、毎日新聞、北海道新聞、北海タイムス、サンデー毎日、空知タイムスなどに報道され、ニューヨークタイムズやイタリアの新聞にも掲載されました。外国からの問い合わせもあり、自分のしたささいな行為の反響の大きさに驚いたものでした。

▼ 歯科医抜歯の塚をたてる  芦別・日本(UPI共同)

 芦別市の歯科医・川原義隆氏は、芦別市に於いて開業以来20年間におよそ6万本の抜歯をした。そしてこのことを世間に忘れさせまいとして、次のような計画をしている。川原氏は、5万4千本の歯を埋め、その上に歯形をした記念碑
をたてた。同氏は、この記念碑を中央にして、記念碑をたてた土地を公園にしようと計画している。これができれば、おそらく抜歯を記念する世界唯一の公園になるであろう。

 その後、アメリカの歯科学生マガジンという雑誌にも写真入りで記事になっているそうです。

 抜歯塚には、漢文で以下のように刻まれています。

  我自従事医業二十年以人憂為我憂以人病想
  我病見人災厄擬我身常以欺心境行診療抜去
  患歯逅巨万収在函中今日開函埋地中永欲賛
  歯牙労苦及建立記念碑営供養刻石章所以也

         昭和四十二年九月二十四日
             文案 川原 義隆
              書 志田  傳
【訳】
我れ医業に従事してより20年、人の憂を以って我が憂と為し人の病を見て、我が病と想い人の災厄を見て我が事の如く常にこの様な心境を以って診療を行い抜歯した歯牙の数も巨万により今日、土に還し永く歯牙の労苦を感謝し記念碑を建て追悼の意を表し石面に刻むものであります。賢人は、刹那的でも社会のため、人類のために大地の上に自らの足跡を残している。我々、凡人としても、そのような心がけを持ちたいと思うが、実現は、なかなか困難である。足跡とまでは言えないが、この抜歯塚がささやかではあるが、大地に爪跡として残ってくれるなら、私の人生を通じて最大の光栄であります。

象印歯科用石膏缶

 子供のころ、診療室や技工室で遊ぶのが好きだった。足踏みエンジンのペダルを踏んだり、バーナーのフイゴを踏んだり、ローラープレスのハンドルを回したり、見るものやること楽しかった。エバンスは耳掻きだったし、スパチュラはペーパーナイフだった。あの頃の技工士室と比べると今は隔世の感がある。

 そんな当時の想いでを語るものを見つけた。錆びて変色しているのでまったく面影がないが、もとは全体が真っ赤で白い象のマークが描かれていた普通石膏の缶「象印歯科用石膏」。そういえば、石膏は缶入りだったよなあ。山荘には朽ちた昔の想い出が残っている。

 と言っても、若い人にはわからんべなあ...

象印歯科用石膏缶

ヤドリギを間近に見る

 落葉樹の枝にまん丸いマリモのような緑のカタマリ。ヤドリギについて以前書いたが、いつも遠くに見えるので実際はどんな植物なのかわからないと思う。野花南にある背の低い木に寄生したヤドリギをアップで撮影してみた。知恵を働かせ子孫を残そうとする生命力に自然の驚異を感じる。この場所で、必死にお尻をこすりつけている小鳥の姿を想像すると微笑ましい。

ヤドリギを間近に見る

関連:不思議な植物ヤドリギ
関連:ヤドリギの実

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