岡倉天心「茶の本」

 2月14日は、ヴァレンタイン・デー。私の誕生日である。「愛の日に生まれた愛のオトコ」がキャッチフレーズの私...。おかげで愛が多すぎて、いろいろな過ちを経験してきた(涙なくして語れない)。

 そんなことは、どうでも良くて、私にとってこの日に大きな意味があるのは、「岡倉天心」と誕生日が一緒ということ。1863年2月14日生誕の岡倉天心は美術家と評されるが、私にとって、そんな枠には一括りにできない人物である。中学生の頃、書店で一冊の文庫本を買った。手に取った動機は、単純にそこに並んでいる本の中で一番薄かったからと記憶している。岡倉天心の「茶の本」。お茶の淹れ方や作法が書いているわけではなく、当時の私にとっては難解な内容であった。ただ、難しいなりにところどころ心に訴える文章に惹かれた。

 例えば、こんな具合だ。『茶碗一服に、なんという「大騒ぎ(テンペスト)」というであろう。とはいうものの、人間享楽の一椀が、いかに小さく、いかに涙もろく、無限へのあくなき渇きによって飲みほされるかということなどを考えてみれば、このような茶碗を、いくらもてはやしたからといって、とがめだてするには及ぶまい。』。今風に訳してみると『たかが一杯の茶のことで、なんと大げさなと言いたくもなるのです。しかし人間の楽しみを入れる器はとても小さくて悲しみで涙を流せばすぐに溢れてしまい、止まらぬ渇きをいやそうとすれば、すぐに飲み干せるほどであることを思えば、たかが茶碗を有り難がるぐらいで、とやかく言うこともないでしょう。』

 『自己の内なる偉大なものの卑小を感得できないものは、他人の内なる卑小なるものの偉大さを見のがしやすいものである。』訳すと『自分の心の中では大きなことが、本当は大したことではないことに気がつかないと、他人の小さなことの大きさを見逃してしまいがちです。』

 この難解な文章は、中学生の私には半分も理解できなかったが、それでもただ漠然と自分の人生観が変わったように感じた。それはたぶん勘違いだったのかもしれないが、その勘違いを今でも引きずっており、今では「人生観を変えた1冊」と言い切ってもよいほどに思っている。二十歳を過ぎた頃、別訳の1冊を買い求め再度読み返した。こうして「茶の本」は片時も私のそばから離れず置いてあり、最近では改めて読み返すこともないが、「ただそばにある」というだけで、自分の根源がそこにあるような気にさせてくれる本なのだ。何を大げさなと思うかもしれないが、これは他人には、わからない感情だろうし、わかってほしいとも思わない。

 ところでこの「茶の本」、元々はアメリカで1906年「THE BOOK OF TEA」として出版されたもので、原文は全て英語で書かれている。村岡博、渡辺正知、浅野晃、森才子、宮川寅雄、桶谷秀昭、山崎武也、大久保秀樹、立木智子など多くの日本語訳が出回っている。かなり薄い本だが、何回も繰り返し読む価値のある作品なので、違う訳で読んでみると印象が変わり、分かりにくかったニュアンスが理解できることもある。

 最近では、インターネットで読むこともできるが、やはり書籍として読むこと薦めたい。

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 あと1週間でクリスマスイブ。クリスチャンでもないのに日本人はハシャギ過ぎという意見もありますが、何かにカコツケて楽しく過ごすのは別に悪いことではないような気がします。

 子供の頃のクリスマスを想い出します。毎年決まって伯父の家で、今で言うパーティ。近所の人たち、普段からウチに出入りする人たち、住み込みの人たち、とにかく家族のような人たちが大勢集まり、美味しい料理を食べて楽しく過ごす。貧しかったあの時代、とても贅沢な気分を味わえるイベントでした。それも毎年決まったメニュー、ザンギ、チンピ、フヨウハイ、クローヨウ、ポテトサラダ。今でもはっきりと覚えています。

 こんな豪華なご馳走にありつけるのは、年取りの夜とクリスマスだけだったような気がします。なんたって、運動会にしかバナナが食べられない時代でしたから。お腹がいっぱいになれば、大人たちは応接間でダンス、子供たちはプレゼントのおもちゃで遊ぶ。幸せなひと時でした。何もない時代だからこそ、季節のイベントを大事にする。そんな想い出をたくさん残してくれた当事の大人たちには今でも感謝しています。

 物が溢れている今の世の中、我が家でも似たようなことはするのですが、あの頃の感激を子供たちに与えているのかといえば、少し違うような気がします。やはり、有り余る物の世界では、毎日がクリスマスなのでしょうか。決して我が家は貧乏だったとは云わないけれど、裕福でもなかったあの頃を、いろいろな感動とともにリアルタイムで過ごせたことが私の自慢です。

 余談ですが、中学2年の時にビートルズがデビューして、彼らとともに時代を過ごせたことも自慢の一つです。私は、今でもよくJazzを聴きますが、やはり1950年代のあの熱く燃える黒人プレヤーのハードバップにリアルタイムで接することができなかったことが残念でなりません。

 話が飛びましたが、一つ一つの季節の催しを大切にしていた日本人の心が失われつつある昨今、考えられないような事件がアチコチでおきています。物に溢れた世の中で、満ち足りなさを感じて生きている人が多くなってきたのでしょうか。貧しい時代の不便さを強いるつもりはありませんが、多少不便でも心の持ちよう一つで幸せになれるということを今一度思い返してほしいと思います。

 ところで、アナタにとっての幸せとは何ですか?例えば、どこかでオシッコをしたくてしたくて我慢ならないときに、やっと見つけたトイレで一気に放出するその瞬間、「はあー」という無上の喜びが口から漏れてきませんか?あの瞬間こそが幸せの極致なのです。人間誰しも、あれ以上の幸せを求めてはいけないのです。そう思って生きていければいいなあと、この歳になって思います。

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