ホントに暖かい冬です。雪掻きの回数も少なく楽してますが、何より我が家の外階段が凍らないのがイイ。

 髪を伸ばしてポニーテールにしていた頃だから7~8年前だろうか。夜、酒を飲んで家に帰り階段を上った。我が家は2階にありタイル張りの外階段を上がらなければ玄関にたどり着けない。下から3段目に足をかけた途端ツルッとスベって転び、したたか腰を打ち付けた。「痛ッテェーナー」と呟きながら玄関まで上がったが、すべての階段に薄く氷が張り「スベル!」の「アブナイ!」のといったらこの上ない。そこで家に入り、ヤカンにお湯を沸かし階段の上から湯を流し氷を全部融かしてやろうと思った。「テメェこのやろ俺にケンカ売ってンのか、この階段のヤロー」ってくらい気が高ぶってる状態。なんたって、こっちは酒が入ってるんだからコワイものがない。しかし、しょせんヤカン一杯の熱湯では上から2~3段しか融かすことができず、再度家に入り今度はウチで一番大っきな鍋でタップリお湯を沸かすことに。

 「今に見てろよ。コノヤロー」と、黙々とお湯を沸かす。

 タップリ熱湯の入った大きな鍋を両手で持ち、サンダル履いて外に出た。階段の上まで来たら、さっき撒いたお湯がすでに凍ってツルンツルン。その場でスベって転んでしまった。両手で持っていた鍋は空高く舞い上がり私は2~3段スベリ落ち、上からアツアツの熱湯が降りそそいできた。「アッチー」「イッテェー」。腰は打つわ頭から熱湯をアビルわ、カンカラカンカンと音を立てて鍋は階段を駆けおりる。深夜の静寂をやぶる大惨事。

 幸い、熱湯は頭の上から右耳の後ろにかけて流れただけ。もし顔にかかっていたら、今頃私は「お岩さん」状態。この美貌?を保ってはいなかったかも。その上幸いなことにロングヘアを後ろで束ねていたことで、じかに頭皮に熱湯が触れなかった。とはいえ右耳の後ろはただれ、お腹と太ももあたりにヤケド。夜間救急に受診しエライ目にあいましたぁ。今思うとアソコにかからなくて良かったなあ。

 翌日、この話を向かいの薬局の人に話したら「センセんとこの亡くなったお母さん、毎年、階段には塩カリ撒いて融かしてたよ」だって。あー、いかに家に寄りつかず遊び呆けていたのか思い知らされましたぁ。それから毎年、熱湯ではなく塩カリのお世話になっている。塩カリって「塩化カリウム」じゃなくて「塩化カルシューム」だって知ってました?

恐怖の階段を上から覗いたところ

美少女に恋して

 この歳になると、昔の記憶が曖昧になってくる。小学校だったか中学校だったか、図画工作だったか美術だったか、教科書の巻末に数多くの名画が載っていた。

 その中の一つに「王女」という絵があり、その子に恋をした。なんて可愛いんだろうと、いつも見入っていた。大人になり、その絵がベラスケスの王女であることを知った。ベラスケスは、マルガリータ王女を6点の作品に残している。3歳、5歳、8歳と、それぞれのマルガリータ王女を描いたとのことだが、私が恋に落ちたのは、どうも5歳のマルガリータであったらしい。私はその頃からロリコンだったのだろうか・・・

 こんな可愛い愛くるしい子が、この世にいるなんてと、子供心にトキメイた気持ちが今でも心の中にあり、ひょっとすると今この歳になっても、ずうっとマルガリータに恋をし続けているのかもしれない。

 ああ、やっぱり私はロリコンだあ・・・

 そのせいか、今はもう勧誘されなくなったが、ロータリクラブから度々お声がかかると、「ロリータクラブなら入ってもいいんですが・・・!?」と断り続けてきた。(ホンマかいな)

 でも私、児童買春なんてしませんからあ・・・

 ちなみに、ラヴェルの作品に、「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲がある。ラヴェルは、ルーブル美術館で、ベラスケスのマルガリータ王女の肖像画を観たときにインスピレーションをうけてこの曲を着想した、という説がある。

ラス・メニーナス 白いドレスのマルガリータ王女
(画像をクリックすると大きなサイズで鑑賞できます)

ウチの娘の家出騒動

 昨日の選考委員会の顛末を詳しく書こうと思ったが、なんか一夜明けたら「もうすでに終わってしまったこと」になってしまい書く気が失せてしまいましたあ。

 そこで我が家の恥?をさらすことに・・・

 昨日、東京からの帰り、千歳に着き携帯の電源を入れると着信表示。その場で連絡を取ると、なんとウチの娘が失踪したらしい。よくよく聞いてみると、今はもうすでに家に戻っているとのこと。事情を聞くと留守にしていた家内が家に戻ると、なんと茶の間の床が○○○だらけ。ウチの娘は、はしたなくも時々トイレではなくそこら辺で○○○をしてしまう。そこで大掃除に取りかかるも二人の娘のうち一人がまとわりついて邪魔をするらしく、この寒空にベランダに出したという。部屋中に臭いが充満しているので、玄関の扉を開け換気しながらの掃除。

 部屋が片付き清らかな空気もよみがえり、ダイニングテーブルに腰を落ち着けお茶を飲みながら大好きなナンプレに取りかかろうとしたとき、ふと気づくともう一人の娘の姿が見あたらない。家中探したが、どこにも気配はなく、そこで初めて失踪に気づいた。開けっ放しの玄関から逃亡したらしいことに気づき、すぐに近くに住む長男に遭難届けを出し探すよう哀願。駆けつけた長男は近所を捜索。この長男、ただ者ではなく雪の上に残る足跡を手がかりに追跡したという。やっとJR駅のホームあたりで見つけたそうだ。なんなく無事に発見され、家に帰り暖を取っているとのこと。それを聞いて「あははは」と笑う私に「笑い事じゃないよ。車に轢かれてないかって心配してたんだから」

 じつはウチでは、大事な箱入り娘を一人で外出させるようなハシタナイまねはさせていない。その辺を歩いていて悪いオトコに騙され、孕まされでもしたらタマッタモンじゃない。その厳しいシツケに耐えきれず家を出たのかもしれないが、よく考えてみると私が一日中家を空けていたので寂しくなり駅まで迎えに行ったのかも。

 うーん、まるで忠犬ハチ公だあ。なんて可愛いんだろう・・・

ボーダーコリー

岡倉天心「茶の本」

 2月14日は、ヴァレンタイン・デー。私の誕生日である。「愛の日に生まれた愛のオトコ」がキャッチフレーズの私...。おかげで愛が多すぎて、いろいろな過ちを経験してきた(涙なくして語れない)。

 そんなことは、どうでも良くて、私にとってこの日に大きな意味があるのは、「岡倉天心」と誕生日が一緒ということ。1863年2月14日生誕の岡倉天心は美術家と評されるが、私にとって、そんな枠には一括りにできない人物である。中学生の頃、書店で一冊の文庫本を買った。手に取った動機は、単純にそこに並んでいる本の中で一番薄かったからと記憶している。岡倉天心の「茶の本」。お茶の淹れ方や作法が書いているわけではなく、当時の私にとっては難解な内容であった。ただ、難しいなりにところどころ心に訴える文章に惹かれた。

 例えば、こんな具合だ。『茶碗一服に、なんという「大騒ぎ(テンペスト)」というであろう。とはいうものの、人間享楽の一椀が、いかに小さく、いかに涙もろく、無限へのあくなき渇きによって飲みほされるかということなどを考えてみれば、このような茶碗を、いくらもてはやしたからといって、とがめだてするには及ぶまい。』。今風に訳してみると『たかが一杯の茶のことで、なんと大げさなと言いたくもなるのです。しかし人間の楽しみを入れる器はとても小さくて悲しみで涙を流せばすぐに溢れてしまい、止まらぬ渇きをいやそうとすれば、すぐに飲み干せるほどであることを思えば、たかが茶碗を有り難がるぐらいで、とやかく言うこともないでしょう。』

 『自己の内なる偉大なものの卑小を感得できないものは、他人の内なる卑小なるものの偉大さを見のがしやすいものである。』訳すと『自分の心の中では大きなことが、本当は大したことではないことに気がつかないと、他人の小さなことの大きさを見逃してしまいがちです。』

 この難解な文章は、中学生の私には半分も理解できなかったが、それでもただ漠然と自分の人生観が変わったように感じた。それはたぶん勘違いだったのかもしれないが、その勘違いを今でも引きずっており、今では「人生観を変えた1冊」と言い切ってもよいほどに思っている。二十歳を過ぎた頃、別訳の1冊を買い求め再度読み返した。こうして「茶の本」は片時も私のそばから離れず置いてあり、最近では改めて読み返すこともないが、「ただそばにある」というだけで、自分の根源がそこにあるような気にさせてくれる本なのだ。何を大げさなと思うかもしれないが、これは他人には、わからない感情だろうし、わかってほしいとも思わない。

 ところでこの「茶の本」、元々はアメリカで1906年「THE BOOK OF TEA」として出版されたもので、原文は全て英語で書かれている。村岡博、渡辺正知、浅野晃、森才子、宮川寅雄、桶谷秀昭、山崎武也、大久保秀樹、立木智子など多くの日本語訳が出回っている。かなり薄い本だが、何回も繰り返し読む価値のある作品なので、違う訳で読んでみると印象が変わり、分かりにくかったニュアンスが理解できることもある。

 最近では、インターネットで読むこともできるが、やはり書籍として読むこと薦めたい。

「茶の本」をお探しならこちら

「知ってる? ほら、今度、キミんちの近くにできた 愛のファミリーレストラン」

「いや~、知らなぁ~い」

「こないだ、行って来たんだけどね、これがすごいんだよ」

「なにがぁ?」

「ハンバーグを注文したんだけどね、それが出てきたらビックリさ」

「どぉしたの~?」

「それがさ、ハンバーグからチヂレた毛 が一本でてるんだよ」

「えーっ! うっそぉ~! やだぁ~!」

「それでね、ウェイトレスを呼んで "これ、ひどいじゃないか"って言ったんだよ」

「うんうん、そぉしたら~?」

「そのウェイトレスがね "お客さん、知らないんですか?これは、ウチの特製ハンバーグなんですよ。ウチのハンバーグは、こうやって作るんですよ"って言うんだ」
(右の手のひらを左の脇のあいだにはさんで、脇をパフパフと開閉させながら)

「えーっ! やだぁ~! なにそれぇ~! しんじらんな~ぃ!」

「そうだろう、えーっ!って、驚いているとね、そこへボーイがやって来てね、"お客さん、こんなんで驚いていたら、ウチのドーナッツなんか食べられませんよ"って言うんだよ」
(左右の手で、親指と人差し指を輪にしてドーナッツの形を作り、腰を前後に振りながらズボンのチャックの前で前後に動かして)

「きゃあ~! やだぁ~! うっそぉ~! はずかし~ぃ! ひぃどぉ~い! それでぇ~?」

「なっ、それでね、またまた、えーっ!って 驚いていると 今度は支配人がやって来てね "お客さん! そんなんで驚いてたら、ウチのギョウザなんて食べられませんよ!"って」

「・・・・・・・・?」

ああ、「愛のファミリーレストラン」で餃子を喰ってみてぇ

 マイジャガーのCDチェンジャーが壊れてしまった。修理のため取り外してもらったら、すべての音がまったく出ない。チェンジャー本体にアンプが組み込まれていたらしい。CDもMDもラジオもテレビもすべて・・・

 この状態で札幌を往復した。片道約2時間のドライブの間、車内に響くのはタイヤが道路を擦る音とわずかなエンジン音のみ。ただひたすらハンドルを握り路面を走る。まったく音がないわけではないが、意識の中では無音。不思議な世界だ・・・

 いつもは、何らかの音が流れている。例えば、枝雀であったり、マイルスであったり、ビーチ・ボーイズであったり、ゼナであったり。心はどこか音が流れる世界を彷徨いながら運転している。余談だがドライブ中、踏み切りに差し掛かり遮断機が下りていると、一時停止後、決まって運転席側の窓を少し開ける。そうすると、踏み切りのカンカンカンという電子音とガタンガタンとレールを鳴らしながら通り過ぎる列車の音がサラウンドで車内に流れ込む。車内の音楽とイイ感じで重なり、私も何処かへ旅をしている気分になる。

 という訳で、私にとってクルマの中でのBGMは必須アイテム。しかし、いまだチェンジャーは入院中。しばらくは「耳寂しい」無音の世界に浸らなければならないようだ。私なりに勝手に解釈してみると、人間は、「無音の世界」では孤独を感じ、安心感を得るために心地よい音楽を求めるのかもしれない。

 話は変わるが、BOSEに「ノイズキャンセリング・ヘッドホン」というのがあるらしい。イヤーカップ内部に超小型集音マイクが付いていて外からの騒音をキャッチ、収集したノイズデータと逆位相の信号を発生して、イヤーカップ内のノイズをキャンセルする。クリアに音楽が聴けるらしい。ということは、音楽を聴かずとも周囲の雑音をカットするのに役立つということ。荒川静香が本番前に集中力を高めるために使っているそうだ。

 音を聞くのみならず、音をカットするためのヘッドホン。世の中、雑音だらけとはいえ、何か腑に落ちないよなあ・・・

 私は、静寂は好むが無音は苦手だ。


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