「その頃、と言っても大正45年のことで、いまから40数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々にしろばんば、しろばんばと叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮游している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。素手でそれを掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。しろばんばというのは"白い老婆"ということなのであろう。子供たちはそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、それがどこからともなく現れてくることを、さして不審にも思っていなかった。」(井上靖「しろばんば」の冒頭)
「しろばんば」とは、伊豆地方での雪虫の呼び名らしい。ユキムシは北海道独特のモノだと思っていた。井上靖の文体は、さすがに美しい。読んでいると、子供時代の同じような情景が目に浮かぶ。秋の夕暮れ、フワフワとカゲロウのように舞い、何かに触れるとそのまま命が絶えてしまう儚さ。ユキムシが飛び始めると、もうすぐ初雪が降る。
夕方の散歩で、今年初めてのユキムシに出逢った。「ユキムシが舞う情景」をカメラに収めるのは無理だろう。仮にシャッターを切ったとしても、それはただの風景に過ぎない。人の心に儚さを想い起こさせる、言葉では表現できない「あの情景、あの雰囲気」を写し取ることは出来ない。
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