「ヤレばデキる」。誤解のないように言っておくが、中学校の性教育でいうところの意味ではない。
子供の頃、親にも学校の先生にも「おまえはやれば出来るんだから」と言われた記憶がある。また、通知箋の通信欄に「玉磨かざれば光なし」と書かれたことも。当時の私が玉であったかどうか怪しいものだが、能力に応じた努力を促し、子供をオダてヤル気にさせようという魂胆だろうことは、今ならば理解できる。しかし果たして今の世の中、やれば必ずできるのだろうか。夢も希望も溢れていた昭和の中頃、明るい未来を信じて努力すれば必ず報われると誰もが一生懸命生きていた。
全体主義にとらわれない個人主義、いわば利己主義ばかりが蔓延する現代、「やればできる」を信じて、やった結果が悪ければ落ちこぼれてゆく。「やればできるというのは、やってできた人のセリフ」であって、実際は「やればできるかもしれないが、やってもできないかも」、「むしろやればできるとは思わないほうが良いかも」、「やれば出来るほど世間は甘くない」、「やらないより、やったほうが良いかも」という退廃的な考え方が大勢を占めてきたような気がする。
この風潮が良いことでないのは当たり前だが、今の閉塞感に満ちた社会では、生きることに精一杯であったり、生きることが困難であると感じる人もいて、どうにも出口が見えてこない。せめて、気の持ち方を変えることで殻を破ることは出来ないだろうか。
「やって、あたりまえ」という感覚。
「やらなければならないことは、やってあたりまえ」。学生は勉強して当たり前。社会人は働いて当たり前。家庭の主は一家を養って当たり前。人間は一生懸命生きて当たり前。政治家は国民のことを第一に考えて当たり前。それぞれの人がそれぞれの道を当然のように歩んでゆく。そんな世の中になれば、いつかまた「やればできる」という努力が報われる希望に満ちた社会が戻ってくるのではないだろうか。
甘いと言われれば、それまでだが。