30年以上も前のこと。想いを寄せていた過去の人の夢を見て目が覚めた。懐かしく切なく淡い幸せな気分に浸り、その日は、いつもより人に優しくなれそうな自分を感じていた。
その頃、私の職場のBGMはラジオ。電波の谷間のせいで、受信できるのはNHK-FMのみ。まだ、CDプレーヤーは市販されておらず、田舎では有線放送などない時代。
いつも通り忙しさに追われるように仕事をしていた私の耳に、ふと美しい曲が流れてきた。目と手は仕事に集中してるのだが、心はこの美しい曲に囚われてしまい、不覚にも涙で目がかすみ仕事ができない状態。夢のせいで感傷的になっていたのもあるが、音楽に泣かされたのは初めての経験。
昼休み、新聞のラジオ欄で曲名を確認。アルバム名をメモして、近所のレコード屋さんで注文。2週間ほどして届いたのが、生まれて初めて買ったクラシックのレコード。ジャズやロック、カントリーがほとんどのコレクションに、まったく異質なクラシックアルバム「アルビノーニ協奏曲集作品10 クラウディオ・シモーネ指揮 イ・ソリスティ・ヴェネティ」が仲間入りした。私のコレクションで唯一、最初で最後のクラシック・レコード。さすがに2枚組のレコードを最後まで通して聴くには、まともな精神状態のときの私には辛いものがある。結局、アダジオばかり聴いていた。
それから10年ほど過ぎた頃、ジュラシック・パークの著者マイクル・クライトンの「緊急の場合は」という本を読んでいて、思わず興奮してしまった。病理医ジョン・ベリーが、逮捕された友人の無実を晴らそうと活躍する彼のデビュー作。ハーバード大医学部出身のクライトンだからこその描写とストーリー展開で、アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞を受賞した医学サスペンス。
(その中の1シーン)
フリッツはスラックスにだぶだぶのスェーターという姿で、深々としたひじかけ椅子にすわっていた。頭にステレオのイヤフォーンをかぶり、太いシガーを吸い、そして、泣いていた。涙が彼のなめらかで、青白いほおを流れおちた。彼は私を見ると目を拭い、イヤフォーンをはずした。
「ジョン、きみはアルビノーニを聞いたことがあるか」
「いや」と、私はいった。
「では、きみはアダジオを知らん」
「知らんね」
「いつ聞いても悲しくなるんだ」と、彼は目をこすりながらいった。
「悲しくて、たまらなくなる。あまり美しいんでね。・・・すわりたまえ」
私はすわった。彼はプレイヤーをとめて、レコードをはずし、注意ぶかく埃をはらって、ジャケットにおさめた。
(マイクル・クライトン著「緊急の場合は」清水俊二訳より)
これを読んで、私と同じように「アルビノーニのアダジオ」を聴いて美しすぎて涙を流す人がいることに感動した。というより、作者のマイクル・クライトンが登場人物に語らせているのであって、私の感性がマイクル・クライトンに近いところにあるらしいことが嬉しかった。きっと私も、いつかジュラシック・パークのような小説を書いて映画化されて億万長者になれるかしら。と思っていたら...
最近になって、私が聴いた「アルビノーニのアダジオ」とマイクル・クライトンが小説で使った「アルビノーニのアダジオ」は、別のものであることが分かった。マイ・コレクションのレコード「アルビノーニ協奏曲作品10」は、A面B面に3曲ずつ、2枚組なので12曲が収録されている。その1曲毎が3部構成になっていて、作品10の1(アレグロ - アダジオ - アレグロ)、作品10の2(アレグロ - アンダンテ - アレグロ)のように、それぞれ3つのパートに分かれ異なるテンポで演奏される。私の好きなアダジオは、作品10の1のアダジオの部分。開始後2分12秒くらいから4分58秒までの部分。
ところが一方、「アルビノーニのアダジオ」といえばコレでしょ!というくらいポピュラーな曲がある。世間では「アルビノーニ作曲、ジャゾット編曲」と云われているが、イタリアの音楽学者レモ・ジャゾットの創作で、アルビノーニとは直接関わりがないらしい。そう云われて改めて聴き比べてみると確かに違う曲。私が初めて聴いて涙を流したのは、正真正銘アルビノーニ作曲の「アルビノーニのアダジオ」。フリッツが聴いて涙を流すのは、レモ・ジャゾット作曲の「アルビノーニのアダジオ」。どちらも美しい。美し過ぎて涙が出そうになる。涙腺がユル過ぎるのは歳のせいでショウガナイとしても、なぜ、このように紛らわしいことになったのか調べてみた。なるほど、サムラコージではないようだ。
(Wikipedia) アルビノーニのアダージョ
(Wikipedia) レモ・ジャゾット
(Wikipedia) トマゾ・アルビノーニ